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カフェみくみく

まったりと生きる。時には忙しく時にはのんびりと。家事が好き書くことが好き。

天才の道。

谷川俊太郎の「道」を読んで、私はぶっ飛んだ。

 

歩いてもいないのに
どこからか道がやって来た
 
これは自分だけの道だ
心がそう納得したとたん
 
向こうから言葉がやって来た
がやがやとうるさい他人を
ぞろぞろ引き連れて
 
道がやって来た
言葉がやって来た
 
 
いや、あのね谷川さん。
天才だから(という言い草はあんまり好きでないが、)こそ、道は向こうから「やって来る」のである。もうどうしたってそうなっちゃうのである。
そして、その仕事を批評する他人が続々と現れる。
しかし、天才はそんなもんに構っちゃいられない。
道とは即ち「言葉」なのである。
 
・・・。
私、自分で道切り開こうとしては挫折し、他人の言葉に振り回されることばっかりなんですけども。きっと、魂がニュートラルじゃないんだろうなぁ。煩悩だらけなんだろうなぁ。
とほほ。
 

 

勝手にして。

時々、訳のよくわからない男性に、
「もっと女っぽくあれ」とか、
「もっと巧くやれ」と言われる。
そういう男性は、「じゃ責任とって」と言うと、
100%ドン引きする。
勝手にしあわせでいてください。
あなたの好きなあなたをまめに世話する甘え上手の女性と。
私には私に相応しい男性がいる。

 


ゲスの極み乙女。 - シアワセ林檎

 

俺たちに明日はない。

私は、SMAPの解散劇と言うのは、単にメンバーにとうが立ってきて、
若い層のファン女子から見捨てられたという事に尽きると思っている。
SMAPと言うグループは、確かに平成のエンターテイナーとしては超一流だったかも知れない。でも、現実にはSMAPには本当の意味合いでの歌唱力はなかった。演技力もイマイチだった。
それを全面的にバックアップしていたのがジャニーズ事務所だった。
他の音楽業界にいるミュージシャンならば皆知っていることだと思うが、
実力とかと無関係に、ジャニーズ事務所の恩恵でSMAPは市場を独占していた。
・・・いつか、AKB48もそうなるであろうけれども、用なしになったアイドルと言うものは処分されるのだ。
もうひとつある。
SMAPの歌の方向性がもう、時代とミスマッチだという事だ。
初期のSMAPの歌詞は、存外反体制的だった。「正義の味方はあてにならない」と言う名曲もあったけれども、これを東京オリンピックで歌われたら困る人は沢山いるだろう。
一大ヒットの「世界で一つだけの花」にしても、これでは今の政権はまずいと判断すると私は思う。
個々なんかどうでもいい、というのが改憲の本質だ。
要するに、SMAPはもう時代が支持するバンドでは徐々になくなっていたのだと思う。
追記。今、私が本当に注目しているのは結構「ゲスの極み乙女。」辺りかも知れない。
彼らは、もうユートピアではなくなった日本で真に生きている。

 


どんないいこと

 

ザ・現代日本小説。

「コンビニ人間」を再再読して、いささか真面目な感想を書く。

これは、本当に現代に稀な「ザ・小説」だと思うのだが、
第一に、まず文章が非常にわかりやすく、かつ自己陶酔的に実験的なところが少しもない。
(注・ネタバレになるが、店員のトゥアン君とから揚げ棒を持って走り回るくだりで私は本当にゲラゲラ笑ってしまった。)

第二に、つくづく思ったが、小説の役割と言うのは、
人間の生きる高潔さを述べることでもなく、世界平和を熱く語る事でもなく、
恋愛の豊饒さを愉しむことでもなく、少数民族の幸せをひたすらに守ろうとすることでもなく、
もっともっと、現代日本社会と言うものをおおっている奇妙な薄気味悪さのようなものを、
乾いた笑いで吹き飛ばすことなのではないかと思った。

主人公が、赤ん坊を泣き止ませるだけならば簡単なのに、というくだりで拒否反応を示している方がかなりいるが、
じゃあそういう方々は相模原殺傷事件を本当に悲しいと思っているのか。
あるある女子会を、当たり前の風景だと不平不満を言っている方も多いけれども、
私くらいの年齢になると、ザ・女子会その後の姿のグロテスクさも見えてくるわけで、
(要するに、子育てが終わって介護に入り、夫婦の愛もそろそろ冷めてきたよと言う家族の醜さみたいなものである訳だが、)
年を重ねるにつれて、きっとこの人はそういう世界に対しますますご健筆をふるって下さると思うのである。

第三に、ここが一番重要なのかもわからないが、
書かれている風景が、現代日本人にとって極めて当たり前の世界である。
しかし、そこにある主人公の視点や言動、行動は少しも世間的に当たり前でない。一種の宇宙人のようですらある。
しかしながら、コンビニと言う小世界と、主人公の聴覚がきちんと描写されているから、
そこに言うに言われぬ説得力がある。

村田沙耶香さんという、ここに本格的にデビューされた作家にエールを送りたい。

 

miku-hayama.hatenablog.com

 

再読。

再び、きちんと読み直して感じたことをつらつらと書く。
この主人公の恵子さんの生き方は、何やらやるせないのだ。
学校でも家庭でも、居場所と言うものがまったくなくて、コンビニ店員としてマニュアルに従う事で、自分のアイデンティティを獲得している訳なのだが、
そこに、何というかものすごい勘違いがある。
要するに、周りにいる「あちら側」の人間は、誰もそんなロボットみたいにコンビニ店員していない訳である。(当たり前だが。)
この恵子さんは、一種のロボットである。
私もそういう面は、限りなく近くあるので理解は可能なのだけれども、
現実の日本社会と言うのは、落ちこぼれ哲学者の白羽が言う通りで、
縄文時代以来(かどうかは知らないが、)ほぼ同じ規範で動いている。
言外の言と言うか、人間とはかくあるべしと言う基準が世間にはある。
恵子さんは、そういう言外の言を逸脱して生きている。
本人も、それじゃまずいとどっかでわかっていて、だからこそ必死に他の店員の服装のデータをこっそり盗んだりしている訳だが、
そこに世間体を気にするという感情が抜け落ちているつか、そもそも世間体と言うものが彼女の中にインプットされていない訳だから、
結果的にはたぶん、他の店員にはなんかおかしな人としてカテゴライズされているに違いなく、
だからこの作品の題名は「コンビニ店員」ではなく「コンビニ人間」なのである。

 

miku-hayama.hatenablog.com

 

 

コンビニ人間。

これはもうすごいぞ!

私は、1964年の小島信夫の「抱擁家族」以来、日本の小説はテーマ的に止まっているとずっと思っていた。
恋愛によって築かれる核家族は、もうとっくの昔に崩壊している。その、精神的あるいは肉体的崩壊を、密かに皆、隠しながらどこかに、親とは違う真の愛で、自らを救ってくれる人がいると信じてきた。それが、現代小説と言うものの本質である。
ところが、この村田沙耶香の「コンビニ人間」は違う。
社会のマニュアルに従う事、例えうわべだけでも資本主義の一兵士になることこそが、この狂った普通の家庭から逃れる道なのであると、高らかに宣言している。そこに、哲学的思弁をめぐらして本当の意味での社会の落ちこぼれになってゆく、白羽と言う男(これは、ある意味今までの現代小説家のカリカチュアにも思える)の参入する余白は、ないのだ。
清清しいまでの、「ポスト現代小説」の誕生である。

 

コンビニ人間