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カフェみくみく

まったりと生きる。時には忙しく時にはのんびりと。家事が好き書くことが好き。

母を赦すこと。

私はいい加減に、母の呪縛から逃れていいのではないかと、
ふと気づいた。
私の母自身は、天使と悪魔が極端な形で同居した人で、
私はこれまで通り物理的には適切な距離を置いていたいけれども、
心の中で母を完全拒否することは、
すなわち自分が女性であることを否定することだ。
精神的にも、適切な距離を置くことが母を赦すことだと私は思った。
ミソジニーから脱出すること。
私自身の中にも、天使的な部分と悪魔的な部分があると認めることだ。
それが自分を解放する。
母と、別々に暮らしてゆく。一緒の墓に入らないと言った選択は、
またそれとは別個に現実的な問題としてある。

 

blog.plutan.org

ポルノグラフィティ。

私は、かなりはっきり言うと村上春樹は高級なポルノ作家だと思っている。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」が何故評判悪かったかと言うと、ポルノ作家がうっかり「愛が欲しい」って言うテーマを書いてしまったからでしょうよ、と密かに考えている。

余談。女性はあたしの官能小説を読みましょう。ハルキより心に優しいですよ❤ 

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

「沈黙」雑考。

突然、我が家の現実的な両親の喧嘩のエピソードになだれ込んでしまうので驚かれるかと思うが、現実問題として、日本では各自が各々違うお茶碗を使い、また他の人の茶碗を使うことは普通無い。・・・ところが、我が家の母方の祖母の育ての親は、カナダ人の宣教師さんだったので、母方の家では、お茶碗も皿も確か箸も、洋風に全員が同じ柄のものを使い、また洗って使い回すのが、私の幼い時には普通だった。ちなみに、母の嫁入り道具は銀の食器類であり、私も生まれたときは銀の匙をもちろん買ってもらった。私が高校生の頃、無理やり父がこの習慣を改めさせたけれども、母はクリスマスのローストチキンまで焼くなと言われ、非常に悲しそうであった。

・・・私が、各自のお茶碗なるものと自分用の箸を持たされた時思ったことは、「これで家は一つの家族ではなくなった。単なる別々の人間の寄り集まり所帯になったんだ」と言う奇妙な感慨であった。別々の柄と大きさの茶碗。使いまわすことのない茶碗。それは、父の言うように家族といえども他の人間が使わない、という清潔感はあったかも知れないが、高校生の私はこの時、非常時に助け合っていたウチの家族と言うのはもう消えたんだ、と感じた。そのくらい大きなカルチャーショックであった。

よく、銀の匙と言うと選ばれた階級と言うイメージがつきまとうが、本来の赤ちゃんに銀の匙を持たせる意味合いは、ここに新しい小さな家族ができたよ、という記念なのである。クリスマスのローストチキンにしても、何でそんな贅沢をするかと言うとそれは、1年の内で一番大切な日。キリストが生誕した日だからこそ、そういう大盤振る舞いをするのである。

日本人だって、神棚にトイレットペーパーを置いたり、仏壇を本棚にしたりしたらやっぱり嫌だろうに。
このように、日本的な習慣を他宗教の人間に無理やり押し付けること。それは一つの暴力に限りなく近い、と私は思う。


映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編

芸術なんていらないよ。

この記事にはちょっと考えてしまった。
人間とは何であるか。死ぬとはどういうことかについて、思考をめぐらすのが小説の役割である、と高村さんは言う。
同じような言説は、現代詩に関しても沢山沢山、未だにあると思う。
「これが詩である」あるいは「これは詩ではない」云々。
だけど、私個人が勝手に思うのは、もう芸術って言う概念とかその存在自体が、そもそも古くないか?
活字芸術と言うのは、そもそも近代社会に余裕ができて、紙と言うものが大量生産されて、
それに書かれた物語を読んで、暇をつぶす有閑階級ができたからだ。
まぁ、いろんな意見はあるとは思うが、私自身はそんなものを、少なくとももう書きたくもないし、必要ともしていない。
何故ならば、ここで高村さんがいみじくも書かれているように、私は生き延びるので精いっぱいだからだ。
今、世界は第二の暗黒の中世のような時代に突入しつつあると、私は思っている。
極々一握りの人間たちが、富を独占し、大多数の人間は死ぬまで働いて働いて倒れて死ぬしかない。
それを、高村さんは「絶望である」と簡単に言うけれども、私はその絶望の中を毎日生きているのがむしろ、常態だと思う。
そこに何らかの光なり、希望が欲しいから私は文章を書いている。間違っても、芸術とやらを製作しているのではない。

mainichi.jp

ずっと考えていたこと。

引きこもるって、そんなに特異な現象なんだろうか。
今、世の中は核家族化が進んで、
真っ白い家あるいは集合住宅の中に、数人の人間が閉じ込められている。
そこに、訪ねに来る他人も滅多にいないのが、だんだん常態になりつつある。
子どもは、いい大学に入らないと将来がない。だから親は、馬車馬のように子どもに勉強をさせる。
でもうまく行かない場合もある。だから、ひっきーが出現する。ひっきーというのは、大抵愛されることに失敗している子どもたちだ。それはしんどいことだ。
だけど、じゃあ親の目論見(=教育)が成功して、無事一流大学に入れて、一流企業に就職できれば、素晴らしい老後が待っているんだろうか?
とんでもない。
今の日本では、バタッと倒れて死ぬまで働かないと、下流老人になると言う。施設にも入れないと言う。
そんなに頑張って、頑張って国に利用されてどこへ行くんだろうか?
ひっきーは生きづらい。
脱出するのは難しいし、50、60歳になって最後は生活保護に落ち込むケースが極めて多い。世の中からも、ごきぶり同然に言われる。
それはなぜか。
みんな、本当はもうこんなに働くのは嫌だからだ。
ひっきーが、羨ましい妬ましいから攻撃するのだ・・・。
そういう国とか世界って、もう狂ってないか?
死ぬまで制度にこき使われて、ある日ピンピンコロリしなさいって言うの可笑しくないか。
何のために生まれて死んでゆくんだ?
健康な子どもを、国のために生産して働いて働いて死ぬ。
今の、バブル世代以上の人はそれが当たり前で、それをしていれば生活は豊かになると信じていた。そして、昔のような社会を実現しろという。
でも、いわゆる富裕層は一度得た莫大な富を手放したりしないだろう。
今、国民なんて本当はいない。搾取されている虫けらたちが、「あいつのほうがまだ恵まれている、あいつはもっと働けるはず」と、内紛を起こしているだけだ。
話は戻る。
ひっきーだって本当は甘えているよりも愛されたい。愛したいし働きたいのだ。
だけど、大抵ひっきーの親は悩みつつも、子どもを手放さない。稀に、20代で追い出すきとくな親御さんもいるけど、大抵が社会復帰にはもう遅いと言った状態である。
なんでそんなに子どもをあまやかすのか。
さみしいからだ。
親自身が、さみしくってさみしくってたまらないからだ。子どもという、唯一の財産から愛されたいからだ。
だから、ひっきーは疲れている。みんなが疲れている以上に。

 


宇多田ヒカル - 誰かの願いが叶うころ

底が浅い。

結局、深く思う事なんだが、
「役に立つ人間」を量産すると言う国の指針は、
ほんとに正しいのかという話である。
男は、若くて企業によく適応する、生産性の高い(はっきり言えば、収入の高い)のがよい、
女も、20代で結婚して孕んでよく子をぽろぽろ産んでくれるのがよろしい、という方針のことである。
表面的に考えれば、それでオッケーな雰囲気は確かにある。
しかし、人間が求めているのはパンのみではないのだ。
例えばの話、いくら有能であっても全然心のこもっていない労働に、人は本当は対価なんか払いたくはない。そんなんだったらば、ロボットを開発して任せてしまった方が、余程優秀でいいだろう。
母親と言うのもそれと同じで、いくら産んでもらっても、ただ「優秀な子」を期待されるのであれば、子どもは重圧に耐えかねてニートになる。
優生思想と言うのは、要するに非常に底の浅い思想だということである。
出来損ないであっても、そこに優しさがあるとか智慧があるとか、本当に他者に向かい合えるという部分、他人を必要としまた、必要とされるという部分に、人間の存在価値がある。


✿【替え歌】 乞(こい) 【原曲:星野源「恋」】