カフェみくみく

まったりと生きる。時には忙しく時にはのんびりと。家事が好き書くことが好き。

再生。

スポーツジムに通い始めてから、 私はあまり詩のことが考えられなくなった。

道路を歩いていると、気がつかなかった風景が、目に飛び込んでくる。

美容院でもどこでも、他人を観察するようになって来た。

私は、やっと親も誰も教えてくれなかったことを、 大金を投じて、スポーツジムのトレーナーから学びつつあるのだ。

肉や魚をスーパーで買ってきてココナッツオイルで焼いて、岩塩で食べること。

夜は早く寝ること。

週に2日は、いやできれば毎日腹筋をして、朝は必ず1時間ウォーキングすること。 で、ないと肩こりがひどくなり、下半身が弱ってかえってしんどいという事。

呼吸は吐いたり吸ったりすること。

人のために、笑ったり泣いたりするということ。

私の閉じた世界が開き始めた。


Love Is All You Need - Beatles

青空は最高に希釈された夜空だ。

私は、相当に物分かりのわるい人だった。

幼い頃から、母は「あんたは要らない子だった」とはっきり言っていたし、父も私には無関心だった。

どうして、そういう事実を素直に受け止めて、ストレートに泣いて、「この人たちはただ利用すればいいんだ」と、割り切れなかったのだろうか。

どこかで、「この人たちは可哀相だし、だから少しは愛して助ける’ふり’だけでもしてあげなければ」と思い込んでいたが、 現実には、父母は優等生の私がいることで、世間体も満足して十二分に幸せだったのだ。

どうも、そういう幼少期が根本にあるせいか、私は基本的に人間があまり好きではないのだと、すとんと腑に落ちた。

もともと私は、学生時代からインダストリアル・デザイナーになるのが夢だった。

父母が、勉強のできない私をあまりにも馬鹿にするので、一流大学に拘ったばかりに落ちて鬱になったが、 最初から美術系のちゃんとした高校に行っていれば、それなりのものになって、夢だったディンクス生活も出来ていたかも知れない。

とにかく、私は無機物、鉱物が好きで、植物はその次で、動物とか人間は苦手なのだ。

ついでに言うと、概念や宗教も嫌いだ。

回復途上で、最初に出会ったソーシャルワーカーが、神さま神さまとしきりに言うので、叩き込まれたお題目を三唱していたが、 現実には、全ての人なんか愛せない。

縁を切った方がいい人も、三倍返しした方がいい人も世の中には五万といる。

そんなものよりも、ずうっと天文台で星を見るのが中学時代の夢だった。

最果タヒは、「夜空は最高密度の青空だ」と詠ったが、私は敢えて言おう。 「青空は最高に希釈された夜空だ」と。

 


椎名林檎 - 青春の瞬き

搾取。

結局、私が気づいたのは、 「メンヘラは甘えている」とか、「みんな同じようにつらいのに、自分の事しか考えていない」とか、わかったように攻撃する人と言うのは、 自分自身、何か大きな鬱屈を抱えていて、精神を病んだ人に当たるんだ、と言う事だ。

普通の人は、自分が生きるので精いっぱいだから、病んだ人は病んだ人として、同情しながらも傍目で通り過ぎてゆくのが普通だし、 ちゃんとした援助職の人は、怒ったり叱り飛ばしたりしないで、自信がない人を褒めつつきちんと伸ばしてくれる。

メンヘラ女性が大好きで、そういう人としか付き合えない男性はまれにいて、いかにも自分がとてもよいボランティアをしているかのように語りたがるが、 現実には、彼らも病人から何か大きなもの、無償の愛情やリスペクトを搾取しているにすぎないのだろう。

 


優しい悪魔 キャンディーズ 歌詞 /フル バージョン

逆転。

私は、両親を暖かい眼差しで見つめて、愛情を注ぎ続けるのに疲れ果てたのだと思う。

両親は私をある意味では甘やかしていた。

・・・それは、自分達が私からの愛情を欲していたからだ。

要するに、両親は私にべたべたに甘えて、愛情を貰ってなんとか生き延びていた。

そういう、怪物みたいな何かものすごく薄気味悪い生き物だった。

私は、いくら愛しても愛しても「まだ足りない」と、両親が態度で行動で示すので、 疲れ果てて絶望して、お婆さんのように背中を丸めていた。

両親がようやっと死に際に近くなって、 もう他人の世話をしなくてよくなって、

私は自分で自分の世話のやり方を教えてくれる人を見つけて、

私の背筋は、ようやくしゃきっと伸び始めた。

その人は、私をちゃんと褒めたり叱ったりしてくれる。

両親をリスペクトする気持ちは、ようやく壊れたグラスみたいに粉々になった。

 


中森明菜 - Riverside Hotel (Live Empress at CLUB eX 2005)

選択。

私が入院した時、父はぼそっと、 「お母さんはだめだ。お父さんと一緒に、小さな家を建てて二人で暮らそう」と言った。

それは本心からの言葉だったのだと思う。

その選択肢が一番正しかった。

でも、私は長年にわたって私に意地悪をする母を放って置いたこの父を、もう信じる力がなくなっていた。

私は、「それは無理だよ」と一言言った。

父はそれきり、もう何も言わなかった。

一方、何か浮かれたように母親は私に耳打ちした。 「あのね。あなたが生活保護を受ければ、この病院に一生いられるのよ」と。

それはとても厭な提案だったが、現実的に実行が十二分に可能で、 しかも考えようによっては、悪い提案ではなかった。

そこは(父が放り込んだ僻地の酷い閉鎖病棟ではなく、二番目に母が選んだ病院は、)日本で一番古い開放病棟だった。

仲間も沢山いたし、あの草間彌生さんが私と同じ主治医の下で、当時そこで現実に創作活動をしていた。

そういういい病院だった。

でも、私はまだ当時25だったのだ。 一生をここで送るのはいやだと私は思った。

 


森高千里さん 『雨』